始まりの物語(本編1/4)
2006年12月暮れも押し迫ったある午後、とある横浜の片田舎の助産院で一人の女の子が生まれた。
朱里と名付けられたその子はすくすくと育ち、幼児の頃には、何やら大人には見えないものが見えてい事の片鱗を覗わせていた。
あらまぁ仕方ないとその手の複数の能力者と縁は深いが全く能力のない母は見えないながら適宜対応していた。
一方娘は幼稚園からピアノを習い始めたが、今は亡きその先生に2回目のレッスンの時”ドレミファソラシドの言葉を覚えるのに2週間かかるのは普通のお子さんとは違います。ですが何か他の能力があるかもしれないので、大きな気持ちでその面を伸ばしてあげて欲しいです。”と言われ、たかがドレミファソラシドの言葉と2週間も格闘した母はおもむろにうんざりした顔を隠すことができず、慌てた先生から”お母様は大変でしょうけれど。。。”と逆にフォローされる。
生涯勉強と切り離せない様な生き方を送っている母とは真反対な娘の特質の壁に親子で幾度もぶち当たり、その都度困惑し、翻弄されることになったのである。
そして今から2年半前、地域社会のための仕組みを作ろうと思い立ったがために必要な資格を取ろうと猛勉強しすぎ、これまでの無理もたたったのか、癌の告知を受ける。ショックでその後の1時間、幼い娘を置いていくのかと悲嘆にくれたが、持ち前の切り替えの早さで治療に専念することに決め、ひたすら努力した。
結果、その後8か月間に及ぶ、大手術、化学療法(辛かった)の治療も何とか乗り越えさせて頂き、今に至る。
この病気を先刻されるひと月前のこと、おきつからのコンタクトに初めて気が付く。
ある夜、当時お亡くなりになっていたピアノの恩師の先生(母も後から一緒に習い始めたため、母子にとってもかけがえの無い存在の方だった)の思い出話を二人で就寝の布団の中でしていた。
その2年前のバレンタインデーの朝、先生の訃報を聞いて悲しみに暮れたその晩、先生が娘の前に光る玉(私たちはオーブと呼んでいる)の中に顔を出してくれた(あくまでも母には見えない)時のことを思い出した。
お通夜の時も会場の天井に大きく先生の顔は浮かんでいたらしい。それからしばらくして、オーブを意識してみることはあるのかと、母は初めて娘に質問した。母はその手の話を娘とするのを敢えて避けていた。まだ娘が理解するのは早いと思っていたからだ。見えることと仕組みを理解することは全く別物で、この辺りを混同してしまっているがために起こる悲劇は少なくないのが現状だからだ。能力者の中にも分かっていない人が多いような気がする。そういう人はただ見えるだけで、全く理解していない当時の娘とあまり差異が無い。というかむしろ勘違いしている分だけ始末が悪いかもしれない。